. All in All => 65th.

All in All

65th.悲劇の主人公

 悲劇の主人公はいつだって自分一人だ。
 自分と言う人格が構成する世界の中心には自分がいて、その目で耳で肌で世界というものを認識している。そのことを愚かと嗤うものもいるが、それとて独断と偏見のただ中にある、美しい自己矛盾だ。
 そんなことを十四の常磐津千尋が理解出来るわけなどなかったのだけれど、それでも千尋は確かに知っていた。
 悲劇の主人公を気取って、憐憫を乞うことは時と場合によれば悪意と取られる。あの夜――生まれて初めて明確な殺意を向けられ、人生というものを投げ捨てたくなったあの夜。千尋千尋の妹も、両親も。皆一様に被害者で悲劇の主人公だった。誰かの明確な落ち度などない。それでも悲劇は生まれてしまう。
 だから。

「精市、英語教えてくれよ」

 千尋は毎日その文言を口にして隣の個室に居座っている。隣の個室のあるじである幸村精市がどんな表情でそれを受け入れているのかは知らないし、多分、結論を得ない方が相互利益になるだろう。
 少しだけ張りの緩んだ声で幸村が返答するのを待たず、勝手にベッドの脇に置かれた丸椅子に座る。視界のない千尋が聴覚だけで椅子の場所を把握しやすいように、そっと幸村が椅子を動かして音を立ててくれるから、この横暴は成り立っていた。つまり、幸村は積極的にではないものの千尋の来訪を受け入れている。
 幸村が英文を読み上げて、その意味を千尋が噛み砕く。
 ただそれだけの行為だ。それでも、そんな毎日がもう二週間ほど続いている。
 そもそも、何故こんな「院内学級ごっこ」ごっこが始まったのかというとそれは二週間前の夕方ごろに遡る。
 その日、千尋は大倉初瀬(おおくら・はせ)が設定した定期検査を受ける為に、朝からずっと院内を徘徊していた。心電図、CT検査、MRI、血液検査に尿検査から始まって立海大学付属病院で考え得る限りの検査を受ける。それは千尋の病状を把握する為でもあったし、これ以上、身体の変調が増えていないかの確認をする為でもあった。二週間に一度。その約束を千尋は受け入れた。
 だから、部活は休みだ。
 その旨を伝えているからテニス部の仲間が来ることもない。
 はっきりと見たこともない院内の廊下を看護師に付き添われて巡る。検査の順番はいつも流動的で、定めがない。フロアの昇降も当然のようにあったし、同じ場所を往復することも決して珍しくはなかったから、いつの間にか千尋の中で検査に赴くエリアの地図が出来上がりつつあった。
 大倉が指定した思いつく限りの検査が終わるといつも大体、午後四時ぐらいになる。
 そうなると千尋としても気分的に疲労していていて、午後五時半ぐらいに大倉が検査結果をまとめて報告に来るまで微睡の中にいることも決して珍しくはなかった。
 立海大学付属病院は緊急指定を受けている。だから、千尋の病室にいても救急車のサイレンが聞こえてくることは決して珍しいことではなかった。寧ろ毎日のように聞いているうちに、新生児を搬送する救急車のサイレンだけ音が違うということも知ったぐらい、救急車の往来は多かった。
 検査疲れでうとうとしていると、その日も救急車のサイレンが聞こえてくる。
 毎日、毎日誰かが命の危機に瀕している。
 千尋の世界に明確な朝はないけれど、それでも死ぬか生きるかという問題でないのは自明だ。
 自分よりもっと大変な誰か、がいることに安堵している。
 他人ごとだから、大変だなで済ませられる、ということをこのときの千尋はまだ理解していなかった。
 ただ、自分が世界で一番不幸だと思い込まない為に感覚が麻痺しているのを自覚していなかった。
 ベッドの中で、少しずつ曖昧になる思考の中で運ばれてくる「自分よりもっと大変な誰か」の無事を他人ごとで祈りながら、それでも、結局、千尋は睡眠を選んだ。
 だから、緊急救命に運び込まれたのが誰なのか。そのことを千尋は翌日になるまで知りもしなかった。

「精市が? 入院?」

 昨日の検査結果をまとめて、相変わらず必要以上に聴力が向上しているから更に検査をすることになった、というのを伝えに来た大倉の声色が少し強張っている。何か千尋に伝えにくいことが起きているのだ、ということを耳が教えるけれど、大倉の顔色はわからない。
 何かあったのか、と問うと「いつかわかることだから言うんだけれど」という前置きをして大倉は昨日緊急搬送されてきたのが千尋の友人であることを告げた。
 四肢の麻痺を中心とした全身の脱力症状――ギランバレー症候群に酷似した難病であるのではないか、と大倉は言う。言われたところで千尋は医者でも看護師でもない。病名を聞いても何の理解も出来ないし、まして幸村の診断は「酷似した難病」であり、正確な原因も治療法もないという。
 どうして、と思うのと前後して胸を締め付けられるような苦しさを覚えた。
 会いに行きたい。会って話したい。まだICUにいるというのなら、幸村の身は未だ危機の中にいるということだ。会って何か言葉を交わしたい。そう思うのと同時に千尋が幸村の為にしてやれることなど何もないことを痛切に思い知る。憐憫を垂れたいのか、と自分に問うた。違う、と言いたい自分と、同じ場所に落ちてきた仲間がいるという安心感を抱いている自分がいる。その美しい自己矛盾が千尋の行動を制限する。行って何を言うのだ。大丈夫か、なんて病院にいる時点でただの時候の挨拶だ。大丈夫なやつは入院なんてしない。悪くても日帰り通院。経過良好であれば通院自体がない。
 わかっている。自己満足だ。
 幸村に会うのも、会わないのも自己満足で、それでも千尋も幸村もお互いの在所を知っている。その状態で面会謝絶なんて何の意味もない。お互いが会いに行ける状態で、お互いを見舞わないというのは既に人間関係の破綻が始まっているということだ。
 つまり、千尋は未来のどこかで幸村を見舞う瞬間と向き合わなければならないということだ。
 わかっている。幸村は強い。強くても病は人を選んで避けてはくれない。どうして、お前がそこにいるのだ、と詰るのは簡単だ。どうして、千尋が這い上がるまで見上げる対象でいてくれなかったのか、だなんて言えばどうなるかも簡単に想像出来る。
 それでも、千尋は知っている。一人の病室で明日の朝を待ち続けるのはあまりにもつらく、そして永遠にも近い時間の流れを感じることも。どこにでもある当たり前の会話にすら希望を見出してしまうことも。千尋は自分の身を以って知っている。
 だから。

「初瀬、ICUって俺でも入れるのか」
千尋君。結論を急ぐのは君の悪い癖だよ」

 千尋の中では近い将来解決しなければならない問題だと認識された。
 だから大倉に問うた。今日を明日、明日を明後日にするのはただの問題の先送りだ。そんなことをしている場合ではない、と千尋は結論付けたけれど、大倉はそれを遠回しに否定する。

「質問に答えろよ。俺でもICUには入れるのか」
「――医師の許可があれば入ることは出来るよ。でも、僕はそれを君に許可しない」

 それどころか大倉は千尋の主治医として他の医師に許可を出すことを禁ずる方針であることも告げる。
 事象としては可能だけれど、現実として不可能だという答えしか返ってこなくて千尋は焦った。今、覚悟を決めたのに未来は千尋の選択を支持しない。今、会っておかないとと逸る結論を大倉は支持しない。
 それでも明日は来る。千尋と同じ病院の中に幸村がいるという明日はまた来る。
 その僥倖であり悪夢のような現実と対峙して、処置したいと思う気持ちを大倉は頑として認めなかった。

「どうして!」
「一つ目は幸村君の状態がまだ安定していないから。昨日の今日で難病の病状が固定する筈なんてないのは君だってわかるだろう。二つ目はICUにはこの部屋とは比べものにならないぐらいの配線がある。君が転倒することも、配線が乱れて他のICUの患者さんの命を危険に晒すことも僕はしたくない。三つ目に――」
「まだあるのかよ」
「これで最後だよ。泣きそうな顔をした君を――罪悪感で今にも命を絶ってしまいそうな君を君より重篤な状態にある幸村君に会わせることは僕には出来ない」

 説明に不足があれば何なりと言ってくれ。
 そう言った大倉の声は芯が通っていて、決意のほどを示す。それでも「百錬自得」の状態にでもなければ聞き逃してしまいそうなほどの誤差で揺れていた。それは大倉もまた今日という現実と戦っていることを千尋に伝える。千尋の保護者として、主治医として、人生の先達として。大倉は幸村よりも千尋を守ることを選んだ。そしてその温情で千尋は今日もまだ生きている。
 わかっている。
 もし、だなんて考えるのには意味がない。
 意味がないのは十分わかっている。それでも、千尋は感情という概念を伴った一個生命体で、だからこそ昨日を振り返ってしまう。後悔と反省は違う。昨日を悔やんでも明日には何の利もない。昨日を変えることは出来ないのだから、省みることはあっても過ぎ去ったときに拘泥して今あるものすら手放すのはただの愚だと知っている。
 それでも。

「俺がここにいなかったら、初瀬が精市の主治医になれたかもしれない」

 そう思ってしまうのだ。先に千尋がいなければ大倉が幸村を診ることもあっただろう。五千万円だなんて巨額の治療費を投げ打つだけの覚悟がある医師だ。大倉が救命について情熱的であることは疑うまでもない。
 医師として、難病を治療するというのが高名なことであるというのはそろそろ千尋も理解し始めていた。数か月にわたって快癒の兆しもない千尋に縛られて、大倉が後悔し始めるのではないか、だなんていう疑心暗鬼に囚われるぐらいには千尋も病院の中のことに詳しくなってしまった。
 そんな千尋と向き合っている大倉の声がそっと柔らかさを帯びる。

「そうだね。ギランバレー症候群に酷似した難病、の治療が上手く行けば僕の論文はきっと学会で好評を得ると思う。とは言うものの、だよ千尋君」
「何だよ」
「逆のイップスだなんて奇異な現象の治療法を見つけるのだって論文の稀有さから言えばいい勝負だ。それにね」
「だから何だって」
「僕は君が思うより大した医者じゃない。僕よりもずっと経験も技術もある先輩が幸村君の主治医だから、君は君が幸村君から僕を取り上げた、だなんて責める必要はないんだ」

 研修医から勤務医になって、研究での成果だなんてそんな一朝一夕ではじき出せるものでもない。
 難病というのは症例が奇異で、原因が特定出来ず、治療法も明確に存在しない。対処療法的な処置しか出来ないけれど、それでも確かに愁訴はある。だから、根治しなくても治療を続けなければならない。患者にとっても家族にとっても医師にとってもつらい。回復の時期が示されれば、人は耐えられる生きものだ。明日の向こうの終わりの日がはっきりしているのなら、人は大抵のことを耐え忍べる。
 それでも。
 難病が根治する保証はどこにもない。
 突然、明日快癒するかもしれない。逆に言えば明日、容体が急変するかもしれない。
 その「明日」がいつなのかが示されないのに理屈がどれだけ整っても、人の心はそれを許容することは不可能だ。本当の本当に、その苦痛と別離しているというのなら、そいつはきっと新興宗教でも始めればいい。それだけの徳を持っているだろう。
 人は明日を知らない。
 千尋も、大倉も、幸村も、誰もが等しく明日を知らない。
 だから。未知のものを恐れることを恥じる必要はどこにもない。不確かなものに不安を感じることを責める必要もどこにもない。
 千尋が息をして、この病室で幸村の身を案じている。
 それ以上のことを求めるやつのことなんて気にする必要はないのだ、と大倉は言っている。暗闇の数か月が千尋に強いたものについて千尋が責任を感じることはない。千尋が何の苦痛も伴わずにここで隠遁しているのならともかく、千尋は現在進行形で自分自身の運命と戦っているのだから。

「――美作先生とか?」

 千尋は今や、小児科病棟ではある種の有名人だ。
 小児科部長から新任の研修医まで、誰もが千尋の病室に観察をしに来る。
 その誰の顔も知らないのに、千尋の中では小児科医の序列を確かに知っていた。
 大倉は若手の部類で、彼より少し先輩となると件の医師の名前を挙げるのが相当だろう。
 そう思って、名前を口にすると大倉の声は更にいっそう柔らかみを増した。

「そう。氷山先生とか」
「えっ、氷山先生なのかよ?」
「君と違って命に別状があるからね。氷山先生が主治医。美作先生が副担当になったよ」

 氷山、というのは今の小児科部長の名だ。
 顔は知らないけれど、千尋の病室にもときどきやってきて会話をするから多少は知り合いだ。
 穏やかな湖面のような声の持ち主で、いつも優しい。声自体は少しかすれていて、多分、壮年から老年に差し掛かる年齢だろう。大倉よりは少し背が低い。それでも、どんなに焦っていても、どんなに急いていても氷山が声を荒げる場面に出会ったことは一度もなかったから、小児科部長という肩書きは氷山に相応しいのではないか。千尋はそんな風に思っていた。

「小児科部長が主治医じゃそもそも初瀬なんかに回ってくる患者じゃなかったな」
千尋君? 僕だって君の治療が成功したらその椅子を狙えるんだからね?」
「馬鹿だな、初瀬。精市の治療に成功したら氷山先生がもっと上に行くから無理に決まってるだろ」
「おや? 君は知らないんだね? 雇われ医者には定年退職が待っているんだよ?」
「私立大学の医学部教授に定年があったなんて初耳だけど?」
「君は、もう、こう、何と言うか中途半端な知識だけは十分にため込んだみたいだね」

 院内学級で他の患者や、担当外の看護師たちと話していると噂話だけはよく耳にする。
 その一つひとつを聞く度に千尋は思ったのだ。千尋を救ってくれる誰か、が大倉初瀬であるということがどのぐらい幸福なのか。仲間たちが当たり前に接してくれるのがどれほどの僥倖なのか。
 多分、千尋の持っている言葉では何一つ正確な表現なんて出来ないだろう。
 だから。
 千尋は前に進むことを決めた。つらくても、苦しくても、痛くても、足が重くても、心が竦んでも。前に進むことで明日を得たいと思った。誰かに与えられるのではない、自分だけの明日を自分で選びたいのだと思った。
 大倉はその意思を汲んでくれるだろう。仲間たちも必要なら励ましてくれるだろう。
 その微かで、消えてしまいそうなほど細い蜘蛛の糸のような奇跡を自分から手放すのだけはやめようと決めた。
 だから。

「初瀬、精市が病棟に来られるようになったら、会いに行っていいだろ」
千尋君。ここは病院だよ。監獄じゃない」

 君が行きたいと思う場所に行くのにどうして僕の許可が必要なのかな。
 先ほどの発言とは裏腹の台詞を言った大倉の声は湿度が限界まで達していて、千尋の前向きさがまた誰かを傷付けているのだということを教える。それでも。千尋は道を選んだ。自分の意思で選んだ。そのことだけは後悔しないでいいように、何度も何度も噛み締めて決めた。
 その、渾身の決心を大倉が言葉通り尊重してくれて、五日後の朝の回診で千尋は幸村が隣の個室に移ったことを知る。看護師の介助を受けながら、朝食を取った千尋は幸村の見舞いに行った。
 何を言おうか。ずっと考えていた。テニス部の仲間たちもこの五日会っていない。誰もが幸村の方が心配で、多分千尋に構っている余裕などなかったのだろう。それをいいことに千尋は五日間、ずっと考えていた。
 千尋の個室と同じつくりの幸村の個室の扉を開く。緊張で指先が少し震えていた。見えないのをいいことに、そんなものはなかったような顔をして、千尋は窓の方へ向かって進む。午前八時ならベッドの上半身は起きている筈だ。だから、もう幸村には千尋の姿が見えているだろう。小さく息を呑む音が聞こえた。そんなに怖がるなよ。思いながら、千尋はもう一歩進む。
 そして。

千尋――」
「精市。英語、教えてくれよ」

 そう、言った。ずっと考えていた。体調を案じる言葉の方がいいか。気分を尋ねる言葉がいいか。励ます言葉がいいのか。ずっとずっと考えていた。
 千尋がこの暗闇の生活に陥ってから、千尋自身もずっと答えが得られない問題に幸村が終止符を打ってくれる。そんな感覚すら抱きながらずっと考えた。
 多分、憐憫は見抜かれるだろう。同情も欺瞞も意味などない。共感は出来るかもしれない。激励も出来るだろう。
 それでも、千尋はそんなものはほしくなかった。
 千尋が今、ほしいものは当たり前の日常で、何でもない風景で、そこにあって空気のように馴染んでいる普通こそほしかった。幸村が同じものを必要としているかどうかはわからない。千尋は一生千尋で、幸村精市にはなれないから、千尋の思う理想以外は描けない。それでも、考えることに意味があるのだと千尋に教えてくれたのは他ならない幸村自身だ。
 その訓戒を全うした。褒められたかったからではない。幸村が教えてくれたことに意味があったのだと示したかった。その結果、袂を別つこともあるだろう。理解が得られなければ、失意のまま自室に帰る。それだけの腹を括って、千尋は幸村の病室へやって来た。
 答えなんて得られないのじゃないか。そのぐらい、永遠にも近い時間の経過と戦っていると不意に幸村の唇から声が零れ落ちる。

「――えっ?」

 たった一音。それ以上の何かが返ってくる気配はない。何かを問われているのは伝わる。それでも、幸村の中で今、情報の処理に不備があった。だから、次の言葉が紡がれない。
 それをどうにか理解して、千尋は馬鹿みたいに質問に質問を返すことしか出来なかった。

「『えっ?』?」
千尋。今、何て言ったんだい?」
「いや、だから『英語、教えてくれ』って」

 幸村は英語に秀でている。考査の前の勉強合宿では主に幸村が指導してくれたから、それを引き合いに出すのが一番いいと思った。だから言った。それだけのことなのに幸村の中では上手く咀嚼出来ていない空気が伝わる。

「それを、今、俺に言うのかい?」
「数学のがよければそれでもいいけど」

 どちらの方が教えやすいのか。その旨まで問うと、幸村がゆっくりと身体を動かしたのが空気を介して伝わってくる。千尋の世界はずっと暗闇だ。幸村がどんな顔で、どんな気持ちでベッドの上に横たわっているのか。千尋にはまるで何も伝わってこない。
 それでも。
 耳朶の奥で、千尋の鼓膜は確かに伝えた。
 幸村は今、小さく嗚咽を漏らしている。

千尋。お前って、本当――お前なんだね」
「――まぁ、俺は俺だからな」

 こんなときでも将来の心配かい。言われて頷く。この場所で何も出来ないと嘆いて、明日まで棄てる気概は千尋にはない。時間は千尋の体調など慮ってくれない。手心を加えてくれることもない。千尋の世界が黒一色でも、日は沈みまた昇る。そうして時間だけが過ぎ去って、何もしないままでいたことで後悔をしたくなかったから、千尋は前を向いた。
 元気ですか、なんて問うてどうする。
 元気でないから千尋と同じ病院の中にいる。
 体調は良くなりましたか、も一緒だ。
 その期待に毎回否定を返すのはストレスでしかない。誰の意にも添えない無力な自分を知って、それだけを突き付けられて、平然としていられるほど千尋は強くなかったし、それに気付けないほど馬鹿でもなかった。
 千尋をしてその次元なのだ。
 幸村はもっとたくさんのことを考えているだろう。
 身を起こすことも困難な自分自身を不甲斐ないと思っている。こんな場所にいて、何の価値もなくなったと思っている。誰かの負担になるようなら消えてしまいたいと思わないだけの強さを十四の幸村に求めるのは多分酷だろう。千尋は無理だと一刀両断出来るけれど、幸村はそれが出来ないぐらいには優しいやつだ。
 だから。

「精市。こんなところじゃなきゃもっといいんだけどさ、それでも、教えてくれよ。俺は何もしないで、ここにいることの方がつらいんだ」
「お前でも『つらい』だなんて言うんだね」

 知っている。その概念を知らないかのように振舞ってきた。気丈に振る舞うことで、自分の場所を守ろうとしてきた。そうしないと、まるで罰せられるかのように千尋は前を向くことを自身に課した。
 だから、本当はずっと墓の下まで持って行こうと思っていた。
 幸村が立海の仲間たちを率いて全国三連覇をするその瞬間に立ち会えなくても、千尋が顔を上げていられるように自分にそう課した。
 下を向くことが、後ろを振り返ることが、立ち止まることが悪だと思っていた。
 でも、多分そうではないのだろう。

「別に。いいだろ。俺だって盛大に人生の迷子なんだからさ、つらいときだってあるんだって」
「それを、今の俺に言うのが実にお前らしいね」
「予想の範囲外だったって? なら、やっと俺はお前に勝ったってことだな」
千尋。予想外には斜め上の他に、斜め下もあるんだけど?」
「そういうのはもっともらしい声で言えよ。お前も大概馬鹿野郎だな」

 幸村の声が湿度を帯びて震えている。顔を覆うどころか、眦を拭うことすらせずに嗚咽している。そんな幸村を見るのは生まれて初めてで、彼の中にも感情の起伏があったのだということを十八か月もかけてようやく知った。全てが整っていなくても人は生きていける。全てが揃っていなくても人は生きていける。それでも、今、手に持ったものが失われたことを嘆かないものなどどこにもいないのだろう。千尋ですら慟哭した。幸村は千尋と違って生死の境に立たされている。その胸中に満ちる絶望と不安を千尋が知ることは多分ない。
 そんなことは最初からわかっていた。
 今、幸村と千尋が言った通りだ。
 千尋千尋。幸村は幸村にしかなれない。
 だから何だと言うのだ。相手の痛みの全てを共有出来なければ友人ではないのか。定量化出来ない感情を正確に共有しなければ人は人と接することを許されないのか。そんな馬鹿な話がどこにあるのだ。
 人は自分にしかなれない。苦しみも喜びも自分一人のものだ。どれだけ近似値を観測しようとも、それは全て自分と言う概念に根付いて、そこから離れることは決して出来ない。
 共感と共有は別の概念だ。完全なる共有は出来ないけれど、共に感じることは――そうであろうと推測することは出来る。
 千尋に出来ることなんて何もないに等しい。
 だから、千尋は選んだのだ。

「精市。俺にも言わせてくれよ。『また明日な』って」

 ここにいて、明日を約束することがどれだけ無意味なのかを千尋は知っている。明日はないかもしれない。明日があると心から信じているものがどれだけ少ないかを千尋は知っている。
 だからこそ、明日があると信じたい。
 今、ここに在ることに価値があり、明日を生きる意味があるのだと知りたい。
 いいじゃないか。一つぐらい脛に傷があった方が乗り越えた明日は輝きに満ちているだろう。今日の向こうにある明日に手が届くことを願うぐらいは許されていいじゃないか。それが千尋の選んだ答えだ。
 生きるということはその微かな願いと無限の絶望との間で揺れる行為だ。

「――お前は、きっと『自業自得だ』って言うと思ってたよ」

 強張った声で幸村が消え入りそうに呟く。千尋の百錬自得はそれを聞き逃さない。幸村の今の心中を端的に表したその台詞が、彼が今、後悔の海の中にいることを教えた。嗚咽するほどの後悔に押しつぶされそうになっている。大人たちには言えない、言っても意味のない告解をする機会を待っていた幸村が告げる感情が何なのか。千尋には何となくわかるような気がした。

「何に対してだよ。お前、そんな酷いことしてるのかよ」
「俺が――強すぎて勝てないからお前はそんな風になったんだ、って」
「その主張が正しいかどうかは一旦置いとくけどよ。それで? どうしてお前が悪いんだ」
「だって――!」

 病室の中に幸村の慟哭が満ちる。
 だってそうだろう。幸村さえいなければ千尋は「逆のイップス」を発露することもなかったし、今頃は順調にテニスプレイヤーとしての功績を重ねていただろう。家族と別離することもない。学校を一度辞める必要もなかった。
 わかっている。そのことについて、寧ろ千尋以上に幸村の方が責任を感じている。
 千尋から全てを奪ったという罪悪を抱え込んで、いつか報いが来る日を恐れて、それでもずっと幸村は立海の旗を掲げ続けた。千尋には多分、真似の出来ない芸当で、だからこそ千尋は幸村のことを仲間だと思い続けることが出来た。
 
「お前に勝てないのは事実だし、それに対して焦ってるのも事実だ。否定しねえよ」
「なら、やっぱり俺の『自業自得』じゃないか」
「違うだろ。だから、どうしてそういう着地点をほしがるんだよ、お前は」

 幸村と出会わなかったら。「楽しいテニス」の時間はもっと長かったかもしれない。ずっと順風満帆。勝ち組の人生。そういう夢を思い描かなかったと言えば嘘になる。
 それでも千尋は幸村と出会ってしまった。越えられない壁に挑む機会を与えてもらった。万能感に浮かされて人を軽んじる人生と別離出来た。敗北を乗り越える瞬間の達成感を教えてもらった。
 今はまだはっきりとそう決めたわけではないし、その結論に帰着させるのは時期尚早だから、誰にも告げていない。
 それでも。
 プロテニスプレイヤーという茨道を歩くのなら、いずれ千尋は遠すぎる勝利と出会うだろう。その瞬間に至るまで無敗であったなら、挫折は千尋をより深く、残酷に抉るだろう。小さな痛みと向き合うのは少しの勇気でこと足りる。それが途中から肥大していったとしても、感覚的にはそれほど大きな差は生まないだろう。何の前触れもなしに、全力疾走のさ中、道を失うことの方がきっと心にかかる衝撃が大きい。たった一度の敗北で全てを失ってしまうことも考えられる。
 そういう意味では千尋のテニス人生はそれほど最悪ではなかった。
 明日の勝利を急くあまり、千尋は視界を失ったけれど、それでも医学的に損傷があるわけではない。いつか。千尋の気持ちが名実ともに前を向き、自分自身に打ち勝てばいつでも千尋は元の人生に戻ることが出来る配慮を受けている。

「自分がいなかった方がよかった、なんて言うなよ。俺はお前がいてくれてよかったんだから」
「俺の所為でお前の人生が狂っているのに?」
「違う。それだけは絶対に違う。俺は俺に負けてるんだ。自分で自分を信じられなくて、逃げているのは俺の方だ」

 だから、千尋の明日は千尋が勝ち取るしかない。その為のフォローがあることを当然と思わないでいいように、世間の概念や視野の広さを与えてくれたのは立海の仲間たちだ。

「精市。勝ち逃げなんてずるい。俺がお前に勝つ日まで、お前がテニスを続けてくれなきゃ俺が困るんだ」

 どうしてこの場所に降りてきたのだ、とは言えなかった。責めても何の意味もないし、それはあまりにも自己中心的すぎるだろう。
 その判断の上で、それでも言わなければならないと思ったから言う。
 千尋の中には未だ幸村精市と言う名の越えなければならない壁があり、そして、その壁のことを敬い、いつか越えるのだと、どうしても言わなければならないと思った。

「お前なら戦えるよ」
「――由紀人(ゆきと)がどうしてあんなこと言ったのか、やっと俺にも意味がわかったよ」
「ダイが? 何だって?」
千尋。俺はお前ほど強くない」
「またそれか。過大評価もいい加減にしてくれよ」
「そうじゃないよ。お前はきっと――本当に強いやつなんだ」
「精市。知ってるか。人は相手の向こうに自分を見てるらしいぜ」

 対峙した相手の向こうに自分の答えがある。自分と言うフィルターを通して見た相手は自分の価値観そのものだろう。相手を強い、と評するのならそれを認めるだけの強さが備わっている。
 千尋の頭ではそれがどういう理屈なのか、判然としないけれど、それでも千尋が強いなどと言うのなら、それは多分幸村の強さであり弱さであるのだろう。
 本当の本当に相手の存在を受け入れられないとき、人はそれを忌避する。見なかったことにして、次の存在に意識を向ける。だから。千尋のことを過大評価するやつら、というのは千尋の向こうに自分の強さを見ている。

「なあ精市。お前は言ってくれたよな。俺が立海に帰ってくるのを待ってるって」
「――言ったよ。本当にそうなる日を願っていたからね」
「お前が今、どんな気持ちでここにいるのかはわからねーけどさ、俺もお前も一人じゃねえだろ」

 病室を見舞ってくれる仲間。家族。医師や看護師。快癒を願う数多の祈りに支えられているのを当然などと思わないからこそ、幸村は嗚咽している。

「精市。だから、もう一回言うよ。『英語、教えてくれよ』って」
「――よ」
「うん?」
「『いいよ』って言った」

 嗚咽が止み、かすれを残した声で幸村が千尋の提案を受け入れる。
 その瞬間、千尋は理解した。幸村が少しだけ――ほんの少しだけ微笑んだことを。

「それで?」
「世間って本当に狭かったんだね。こんなところで、お互いにないものを補える相手が見つかるなんて、そんなこと考えたこともなかったな」
「それは俺が言う台詞じゃねーの?」
千尋。『ありがとう』」
「それも俺が言う台詞なんじゃねーの?」

 まぁでもいいか。
 そんなことを考えながら、千尋もまた破顔する。
 悲劇の主人公はいつだって自分一人だ。それはつまり、自分の気持ち次第で喜劇の主人公に変えることも出来る、ということだ。後ろを向いて失ったものを未来永劫嘆き続けることも出来る。手に入らなかったものをずっと悔やみ続けることも出来る。それでも、自分の気持ちさえ向きを変えれば明日手に入るかもしれないものを望み続けることも出来る。
 人は永遠を持たない。だから今しかない。今、生きることしか出来ないのだ。
 無限にも近い耐久は心に負荷を強いる。千尋も幸村も明確な「明るい明日」の保証はない。
 それでも。

「精市。じゃあ、また明日、な」
「今日はいいのかい?」
「あー、今日はまぁいいや。初瀬にテキスト用意してもらわねーと何も出来ねーし」
「じゃあ、千尋

 また明日、ね。
 何の気負いもなく、それでも適切な張りを持った別離の言葉が聞こえる。
 人の心は移ろうものだ。希望に満ちたり、絶望に嘆いたり本当に忙しのないものだ。
 それでも。人は思った方に進んで行くことが出来る。自分が心の底から願うのなら、人は変われる。快癒するその日がどれだけ遠くても。それが自分が主役の演目の真の意味だろう。自己満足しかない世界で、それでも上を目指すのだと決めたのだから、千尋は今を生きている。
 自分すら満足させられないで誰かの期待に応えることがどうして出来るのか。自分の為にやったことが誰かの役に立つ。そのぐらいの奇跡を待つことしか人には出来ない。
 それでいいじゃないか。
 そうやってより良い明日の絵図が描けたなら、そのときは笑顔で喜び合えばいい。
 だから。千尋は幸村の病室を後にする。
 勉強がしたいのだ、と大倉に告げたら彼はどんな反応をするだろうか。そんなことを考えながら、千尋は自室へと戻るのだった。