66th.Good morning
常磐津千尋の世界から光が消えたまま、立海大学付属中学は冬休みを迎えようとしていた。
去年なら今頃は二学期の期末考査に四苦八苦していただろう。
千尋も幸村精市も附属病院の小児科病棟に入院しているから、考査を課されることはない。二学期の半ばまでの成績を暫定的に継承する、と学校側から説明があった。
千尋と
千尋の保護者である大倉初瀬(おおくら・はせ)は別々の理由からそのことに対して、特別な感情を抱かなかったが、幸村はそうではなかったらしい。いつも通り、朝食を取った後、幸村の病室に向かうと少しだけ雰囲気がおかしいのに気付く。
「『おはようございます、精市君。浮かない顔をしていますが、お元気ですか?』」
「『おはよう、
千尋。お前と同じぐらいには俺も元気だよ』」
「『とてもそうは見えませんが、何かあったのですか?』」
「『試験が受けられないのが悔しい、って言ってもお前には通じないだろ?』」
「『いいえ。私もここにいることを歯がゆく思っています』」
毎朝恒例となった英会話のトークが始まる。
千尋は教科書英語でカタコトなのに、幸村からは流暢な言葉が流れ出る。圧倒的な語学力の差を目の当たりにして、それでも怖じないぐらいには
千尋と幸村の英会話はもうずっと続いていた。最初の頃なんて本当に「ワタシ、エイゴ、ワカリマセン、チョットシカ」みたいな発語しか出来なかったのだから、そこから考えれば格段の進歩だ。教科書通りの文法でしか話せないが、それでも会話が成り立つのだからゼロとイチの境界を越えたと言えるだろう。
そんな堅苦しい英語が不意に寸断されて、幸村がふ、と息を吐く。
褒めているような、呆れているようなニュアンスで彼は顔を綻ばせていた。
「――
千尋、お前の場合は部活が禁止されてて外出も出来ない、が本音じゃないのかい?」
「何だ、バレてたのかよ」
「試験が受けられなくて歯がゆい、なんていうタイプじゃないだろう、お前って」
「うーん、どうかな。お前がマンツーマンで教えてくれたことの確認が出来ないって意味じゃ、俺も歯がゆいかな」
ICUから出てきた幸村と面会したあの後、
千尋は大倉に幸村と二人で勉強をしたい、ということを伝えた。点字も時間が許す限り覚えて、今ではアルファベットの綴りが読める。肝心の日本語の方はまだまだで、大倉が苦笑していたが、それでも
千尋の進歩を喜んでくれた。
文字が見えない、書けない
千尋に勉強を教えるのは並大抵ではないのだろう。天才――あるいは神才と呼ばれる幸村をしても中学二年生で学ぶ内容の全ては伝えられなかった。丸暗記で対処出来ることは大体は出来るようになった。数学も問題によっては何桁もの計算を暗算出来たりしたが、その代わり、視覚が必要な漢字の読み上げや書き取りの一切が不可能で
千尋の中で得手と不得手が逆転したことには驚いている。
「俺ってさぁ、記憶力あったんだな」
「元々お前はそういうタイプだったじゃないか。丸暗記で覚えながら、自分で考える。そういうのが得意だろ? 『戦記』の
常磐津千尋」
「いや、どっちかっていうと今、まさに俺自身が『行き止まり』だと思うぜ」
「『神の子』でも病気には勝てないんだから、仕方ないよ」
「あー、早くお前と一緒にここから出てーな」
そんな他愛もないことを言い合いながら、病院の一日は過ぎる。
千尋と幸村が隣同士の病室に入院しているから、テニス部の仲間たちは見舞う手間が減ったと悪口を叩く。考査が終わればまた彼らも面会に来てくれるだろう。その日を一日千秋の思いで待ちながら、
千尋は暗闇の中で情報を記憶に昇華させ続けた。
努力では越えられない壁があるという現実が
千尋の前に立ち塞がったのはそれから五日後のことだ。
千尋も幸村も個室で起居しているけれど、院内学級の時間になると部屋を出る。小学生、中学生、高校生。小児科に入院する子どもたちが一堂に会して会話をする時間には顔を出すようにしていた。
今年の院内学級は今日が最後。看護師がそう告げて解散となったのを理解していると
千尋の耳に残酷な言葉が幾つも聞こえてくる。
明日、お母さんが迎えに来てくれるの、だの、僕は今日の夕方だよ、だの何のかんのと優劣を競っているけれど、どれも皆一様に一時帰宅をする、という旨の報告会だ。年が明けて、松の内が終わればまたここに戻ってくる。完治しての退院ではない。それでも、帰る場所が別にあるというのは
千尋にとっては羨望の的そのものだった。
千尋には帰る家がない。
千尋の新しい保護者になってくれた大倉のマンションには空き室があり、いつでもそこに住んでもいい、と大倉は言ってくれたけれど、未だに
千尋はまともに大倉の顔を見たことすらない。よく知っている筈の、信頼している筈の大倉のことを信じているのに
千尋はどうしても寂寥感と別離することが出来なかった。
十二年間、生まれ育った郷里のことを思い出す。
二度と帰ることが出来ない場所。二度と顔を合わすことのない「元」の家族。
それでも、どうしても、帰りたいと弱る心をどれだけ痛めつけて理解させようとしても、どうしても帰りたいとしか思えなかった。
幸村も一時帰宅は出来ない、と知ったとき。
千尋は酷く安堵した。この吹き溜まりに一人でいなくてもいい、という安堵と自分よりも病状の悪いものがいる、という安堵だ。その感情に気付いたとき、
千尋は自分を酷く軽蔑した。人として終わっている。
だからその感情には蓋をした。何もなかったかのように覆い隠した。
その偽善を見透かすような声が聞こえたのはその日の夕方のことだった。
「『
キワ君。お加減はどうですか?』」
「――ヤギ?」
普段なら病室に近づいてくる足音が聞こえる。病室のドアを開ける音も、何もなく、まるで突然に柳生比呂士に声をかけられたような状況になって、
千尋は内心狼狽した。逆のイップスになってから――百錬自得の聴覚を使うようになってから、こんなことは一度だってなかった。とうとう頼りの聴覚まで駄目になったのか。束の間そんな恐怖に支配される。
それを柳生に告げるべきか、一人で隠すべきか悩んで、結局は声をかけられた言語ではなく日本語で応対した。
「ヤギ、どうかしたのかよ。今日の面会時間はもう終わるだろ」
目の見えない
千尋の病室では定時になると時報が鳴る。小児科病棟の面会時間は午後六時まで。午後五時半のベルは鳴った。それから時間が経っているからそろそろ午後六時のベルが鳴ってもおかしくない時分だ。
なのに柳生はここにいる。A型男子で生真面目を絵に描いたような彼のすることとしてはどこか違和感があった。
千尋の疑問など気にもかけないで、柳生がベッド脇のパイプ椅子に腰かける音が聞こえた。
少しの間、柳生が何かを思い悩んでいる雰囲気が伝わって、結局、彼は息をするように言う。聞きなれた異国の言葉が
千尋に向けて紡がれる。
「『
キワ君のことをダイ君に話そうかと思うのですが』」
「――っ!」
そうしたらダイ――千代由紀人(せんだい・ゆきと)も正月休みに帰国するかもしれない。病院に見舞ってくれるかもしれない。親切心に満ち溢れた労りの言葉の筈なのに、
千尋はまるで心臓が潰れるような胸の痛みを味わった。
「――だ」
「
キワ君?」
「――やだっつってんだよ。嫌だ。嫌だ! 絶対に、嫌だ!」
何を親切ぶって余計なことをしようとするのだ。誰が同情を望んだ。哀れみなど必要ない。
千尋はまだそこまで自尊心を投げ捨てたわけではない。矜持は持っている。自分が<
常磐津千尋だという自尊心を持っている。
だから、その提案だけは決して受け入れられない。
まるで、千代に自分の病状が伝われば人生が終わってしまうのではないか。そんな根拠のない大きな不安が
千尋を襲う。
千尋と千代は対等だった。いつも同じ高さの場所にいて、いつも同じように競ってきた。楽しいときも、苦しいときも一緒だった。感情を分かち合って一緒に色んなことを経験してきた。
その千代に自分がこの場所で留まっていることを知られるのは耐えがたい苦痛だった。
見捨てられるのも、見下されるのも絶対に嫌だ。
千代のあの厳しさを灯した双眸に哀れみの色が載ってこちらを見ている様を想像する。
それは
千尋にとって耐えがたい苦痛で、そんな無様な姿を見せるぐらいなら関係を断ち切ってしまいたい。そんな絶望感に押し潰されてしまいそうだった。
「嫌だ。ダイに同情されるぐらいなら、俺はもうテニスなんてしない」
「――
キワ君、本気で言っているのですか?」
格好が悪い。情けない。不甲斐ない。意気地ない。
そんな自分の姿をかつての相棒が見ればきっと失望するだろう。ダブルスのペアを組んでいたことを後悔するかもしれない。そして、千代だけ前に進んで
千尋はここで暗闇の中に残る。
嫌だ。そんな未来しか待っていないなら、いつかこの苦しみを乗り越えて元通りに戻れないのなら、
千尋はテニスを棄てるしかない。そのぐらい、
千尋にとって千代由紀人というのは別格の存在だった。
目が見えなくなってもう数か月になる。
千代から届いたメールに返事をしないで、ずっと待たせている。
そのことを千代が不安に思っていないか、だなんて気に掛ける余裕すらなくて
千尋はただ自分の感情の為だけに返事を保留した。メールは誰が打ったかなんてわからないから、
千尋の携帯電話を渡して、幸村にでも代わりに文章を入力してもらえば十分、返答できる。
わかっていたけれど、虚偽の報告が出来なくて
千尋は保留を選んだ。
そのことを立海テニス部の仲間たちは皆知っている。
知っているのに催促するものがいないことに、
千尋はずっと甘えていた。
――あの日。全国二連覇を果たした
千尋に解散宣言をした千代の気持ちなんて考えもせずに、
千尋は自らの保身を選んだ。そのことを仲間たちがどう思うかすら考えられないで、
千尋はずっと悲劇の主人公を演じてきた。
「絶対、治るから。治ったら、報告するから」
もう少し待ってくれ。切れ切れにそう嘆願するのすら精一杯で、
千尋は呼吸すらままならない。
自己愛に囚われた
千尋を斬りつけるように柳生の問いが追撃を放つ。
「
キワ君。それは『いつ』ですか? キミはもう何か月もここにいるのではないですか? 待たされているばかりのダイ君が――可哀想だとは思えないのですか?」
「――お前、急に何言って――」
「キミがキミばかりを庇うと言うのならワタシはダイ君の味方をします。そういう解もある、とわかっているでしょう?」
「でも、あいつ、今、大変なときで――」
「キミだって十分大変なのではないですか? このまま、何も報告されないで、完治したときに結果報告だけされれば、キミはどんな気持ちになると思いますか?」
「――」
それは、多分、絶縁を考えるきっかけの一つになるだろう。
信じられていなかった。苦難を共に分かち合うと言いながら、自分の弱点を晒そうとしない。そんな不誠実な虚言を頭から信じてくれるのは多分、一億二千万の人口を総当たりして一人か二人いれば十分奇跡だ。
苦しいときに苦しいと言ってくれなかったやつと距離を取らないやつはいない。それまでが親しければ親しいほど、落差は増す。だから、千代を信じているのなら
千尋は彼に説明する他ない。わかっている。どれだけ理屈がそれを支持しようとも、
千尋の感情は揺れる。
千代の「オンリーワン」を自負しているのなら告げるべきだ。
千代由紀人というのはそれほど薄情なやつではない。一緒に――幸村がそうしてくれたように苦難を分かち合ってくれるだろう。
あの日。突然に千代がテニスを辞めると言った日。
千尋は確かに憤った。なぜ一人で抱え込んでいるのか、だの、どうして相談してくれなかったのか、だの、それこそ今、柳生の言った通りに怒りを覚えた。
それと同じことをしようとしている。しかも、もっとずっと酷い形で
千尋は千代を傷付けようとしている。
柳生の纏っていた空気が不意に剣呑さを帯びて、そして別人の声となって彼の憤怒が届く。
「俺は許さんよ、そんなやつ」
「――っ!」
柳生はダブルスの専門選手ではない。それでも、最近は仁王雅治とよく組んでは色々な「お遊び」に興じている。その中の一つに、お互いのように振舞って周囲を欺く、というのがあった。仁王は元々、人のふりをするのが上手い。相手の特徴や仕草を観察して、それを模倣する、というところに彼の原点があった。勝手に柳生の姿をして練習に現れては、柳生が二人いるかのような混乱に陥れているのも何度か経験している。それに対抗するかのように柳生もまた仁王の真似をし出したのは二学期に入ってしばらくした頃のことだ。おかげで、今では本当の本当に深く観察しないと、今、自分が向き合っているのがどちらなのかわからないぐらいだ。
柳生と仁王の足音は本当に聞き分けにくい。
柳生の声で仁王がこの病室に現れたのだ、と
千尋は瞬間理解する。
相手を痛めつけるようなやり方で柳生が非難するのは違和感があったけれど、これが仁王ならそれほど驚くことでもない。仁王は、いつだって自分の正義に正直だ。相手を傷付けても、自分の道義を貫き通すことに何の抵抗もない。
「――ハル、それでも俺は嫌なんだ」
「何がじゃ」
「あいつは――ダイはきっと後悔する。あいつは何にも悪くないのに、自分のことを責める」
「お前さんが幸村にしたようにかい?」
「――そうだ」
先に自分が膝を壊していなければ、
千尋が基金を使うことが出来たかもしれない。
千代がずっと立海の特待生のままなら、
千尋は逆のイップスにならなかったかもしれない。
もしかしたら――もしかしたら、と千代はきっと色々なことを考えるだろう。それを否定したいのではない。千代にはそれを悩む権利がある。
それは千代に与えられた権利で、
千尋が抑止したりすることは決して出来ない。
それでも。
だからこそ、
千尋は千代に知らせたくなかった。
「わからんじゃろう。案外、お前さんよりもよっぽど器用に割り切るかもしれん」
「かもな」
「『かもな』? じゃったらお前さんは何をそないに怖がっとるんぜ?」
「――ハル、後悔なんてしない方がいいだろ?」
「お前さんが教えんことで生まれる後悔もある、ちゅう話なんじゃが?」
暗闇の中、ベッドの脇でベルが鳴る。午後六時。面会の終了時刻だ。
お互いにそれとわかっているのに、仁王が退室する雰囲気もなければ、
千尋がそれを促すこともない。
病棟看護師が巡回に来るのはこの部屋が最後だ。午後六時半。それまで猶予が残っている。
「なぁ、ハル。俺は強欲なんだ」
「知っちょるよ。
キワちゃんは強欲さだけじゃったら立海では誰にも負けん」
「だからさ、欲しいんだ」
「――何を?」
「全部成功する未来、ってやつかな」
病と闘って、勝って。試合で戦って、勝って。
夢を叶えて、幻を真実にして、そうして願ったものを手に入れて、
千尋は光り輝く世界を手にしたいのだ。その為の努力なら何でもした。人を負かすことの罪悪感など端から知らない。負けたやつが全面的に悪いと無邪気に信じられた。
その気持ちが今は見えない。見えていないのに前を向いているやつと何を話せばいいのか、馬鹿の
千尋には見当も付かない。この馬鹿馬鹿しさを露呈して、相手に失望されるのが嫌だ。呆れられて見捨てられるのが嫌だ。精神的負荷から体調を崩したなんて死んでも相棒に聞かせたくない。
そう思うことの何が悪い。
そう思ってしまうことをどうやって否定すればいい。
誰も
千尋は悪くないと言う。
それでも、
千尋はもう失った。温かい家族も――帰るべき場所も、肩書きも栄光も、栄誉も未来ももう
千尋の手の中にない。
明日のことを考えている、だなんて嘘だ。
今日の苦しみから視線を逸らして今でない何かを――いつかの未来にあるかもしれない幻を見ているだけだ。
「なぁ、ハル。格好付けたいってのは駄目なのか? 相棒の前でぐらい強がっていたいってのは駄目なのか?」
絶望など知らないような顔をして、希望を紡いでいくのは周囲からすると滑稽なのかもしれない。現実と向き合って、解決しなければ未来永劫
千尋の眼が見えることはないのかもしれない。
それでも。
「俺はダイが、いつか帰ってきたいと思っていられる俺でいたいんだ」
だから、千代に病のことを告げるのは嫌だ。改めてそう言うと、見えもしないくせに瞼が熱を持つ。何も映し出さないくせに、一人前に涙を流そうとしている。どれだけ無力でも、自尊心だけが高すぎて折れることも出来ない。
「なぁ――ヤギ。わかるだろ。自分のこと嫌いじゃないけど、別の誰かになりたいって、そうだったらいいなってお前も思うだろ」
「
キワちゃん、お前さん、何を言うとるんぜ」
「いいよ、もう別にハルの振りなんてするなよ。お前は柳生比呂士だろ」
目が見えないからこそわかることがある。
どれだけ声音を取り繕っても、話し方を真似ても、息継ぎの瞬間まで擬態してもそれでもわかるものはわかってしまう。ここにいるのは仁王雅治ではない。柳生比呂士だ。
それはもう見抜いた。だから、擬態をやめろ、と言う。
言われた仁王――の振りをしていた柳生が狼狽する。ここで狼狽した時点で本物の仁王ではなかった、という感触が加速度的に増す。
「だか――」
「人の姿じゃないと素直に説教も出来ねーんだろ。そのあと俺がハルのこと心の底から憎んだら、お前、責任取れんのかよ」
責めるように吐き棄てた。柳生がそれに困ったように笑う。
「――仁王君は多分『それならその程度じゃったちゅうことじゃ』と笑ってくれる、とワタシは思います」
「なぁ、ヤギ。墓の下まで持ってくって言うじゃねえか」
「それは一人の秘密の場合でしょう。キミの場合、ダイ君以外のほぼ全員が知っているのですよ?」
「それでも――っていうのは駄目なのか」
「それを決めるのはワタシではないと思います」
千尋と千代の二人だけが決められることだ。柳生にも仁王にも決められない。当事者のことは当事者が決めることで、その判断を他人に委ねても最終的には後悔しか生まない、と柳生は落ち着き払った声で言う。
その通りだ。わかっているのに
千尋の胸は絞られるように痛い。
それならその程度だったということだ。
柳生の――仁王の言っているのは真理の一つなのだろう。十四の
千尋にその判断をすることは実際問題不可能で、命題の証明をすることも出来ない。
「なぁ、ヤギ。精市の病気のこともダイに言うのか?」
千代以外、ほぼ全員が知っている病、がもう一つこの病棟の中にある。
そのことも言うのか、と濁さずに聞くと柳生は大きく息を吸った。すう、という細くて長い音が聞こえる。躊躇いを感じさせるほどの間を置いて、それでも明言された言葉は確かに芯を持っていた。
「――言いますよ」
「『いつか、そのうち』って付いてるだろ、それ」
「一度にたくさんのトラブルを伝えることは多大なる負荷を生みますから」
「ヤギ。別に俺はお前に無理して言えっつってんじゃねえよ」
言いにくいなら言ってやってもいいけど?
冗談めかして尻馬を叩くようにして震える声で言い返した。
千尋の虚勢を見抜いて、それでも柳生は笑うことなく受け止める。
「キミは本当にずるい人ですね。キミの病気のことを明らかにしろ、という主張を通すならキミは幸村君の病気も一緒に伝える、と言うのでしょう? 本当にずるい人だ」
「残念だったな、ヤギ。
常磐津千尋ってのはそういうやつだ」
無理やりに微笑んで不敵にそう言う。
眦はまだ湿度を帯びていたけれど、声の震えは止まっていた。
柳生が動く気配があって、柔らかいもの――ティッシュペーパーが
千尋の目元に充てられる。それを有難く受け取って
千尋は紙の中に顔を埋めた。湿度と別離して安堵している
千尋の耳に爆弾発言が飛び込んでくるのに息継ぎをする間すらなかったほどだ。
「――わかりました。では、今から電話をかけましょう」
「えっ!? なんでそうなる――」
「冗談ですよ。ワタシもそんな覚悟あるわけないでしょう?」
「おま――本ッ当に心臓に悪いから、そういうのやめてくれよ、な?」
時差とかあるだろ。弱弱しく呟くと柳生もまた消え入りそうな声で「知っていました」と返ってくる。知っていたのか。知っていてそれでもブラフを張れるのか。
千尋の中で抱いていた、真面目一徹一本気、という柳生のイメージが少し違う形をしたのを感じる。
それでも、と柳生の声が憂いを帯びて
千尋の名を紡ぐ。
「
キワ君の人生です。
キワ君が選んだ答えしか、
キワ君の人生にはないんです。それでも、キミが胸を張るのに必要ならワタシはいつでも相談に乗る、ということを忘れないでください」
巡回の看護師の足音が少しずつ近づいてくる。隣の――幸村の個室のドアが開く音が聞こえて足音は再び小さくなったが、次はこの部屋の番だ。今の間に柳生は退室すべきだろう。そうすれば少なくとも注意を受けることはない。
時間だ、と告げると柳生は名残惜しさを滲ませて、そうして次回の約束を残して帰って行った。
入れ違いで看護師の足音が大きくなったかと思うとドアが軽くノックされる。硬質な音を聞きながら来訪を受け入れると馴染みの看護師が入室した。柳生の来訪に応対する為にベッドの上半身が起き上がったままだったから、客人の存在を完全に否定するのは愚だとわかっていた。
「
千尋君? 誰か、お友達が来ていたの?」
「そう。俺からすればどっちでもいいんだけど――凄く、人を励ますのに不向きなやつが」
「
千尋君も十分そちら側、だと思うけど?」
そうかな。そうよ。
そんなやり取りをして、それでも看護師は最後に釘を刺すのを忘れなかった。今回は見逃すけれど、面会時間はきちんと守るように、と言い残して彼女は退室する。
夕食の時間が間もなく訪れる。病室でずっと過ごしていると何も動いていない筈なのに、それでも空腹感を覚える、ということを知ったのはいつだっただろう。それほど以前の出来ごとではないのにずっと前だったような気がする。
なぁ、ハル。心の中で
千尋は仁王に呼び掛ける。彼はきっと知らないのだろう。この世界で、
千尋のことを馬鹿みたいに面倒を見てくれる存在はそう多くない。立海テニス部の中では、仁王が頭一つ以上抜いてダントツに面倒見がいい。その対象になれるかどうかは紙一重の差しかないのに、それでも
千尋は確かに得てしまったのだ。仁王雅治からの信頼を受ける、という僥倖を
千尋だけが受け取ってしまった。
だから。
これは少し早い仁王からのクリスマスプレゼントだと思うことにした。
人を褒めるのも励ますのも柄に合わなくて格好悪いと尻込んでしまう、そんな不器用な仁王のことは決して嫌いではない。今日、ここに来たのが真実柳生でも――柳生の振りをした仁王でもどちらでもいい。
この世界にはまだ
千尋のことを慮ってくれる仲間がいるのだと知れたのなら――地球の裏側で孤独に戦っている筈の戦友にも弱みを晒せる。そんなささやかだけれど、確かな感触を得て、そうして
千尋は明日もまたgood morningと言いながら幸村の病室に飛び込んで行ける。そんな力をもらった気がした。