68th.激励
三月が始まった。
常磐津千尋の弱みの相談を受けた幸村精市は笑うことも嘲ることもなく、ただ「お前が選びなよ」としか言ってくれなかったけれど、見捨てられたようには聞こえなかった。その翌日からも、いつも通りの顔――と言っても見えないのだけど、そういう雰囲気だった――をして幸村は
千尋の「おはよう」を聞き続けてくれた。
答えを出すことも、それ以上誰かに相談することもしないで――まるで手紙などなかったかのように
千尋の時間は過ぎた。
夜が明けると幸村の誕生日だ。祝いごとの手順は全て真田弦一郎と柳蓮二に託してある。彼らならきっとちょうどいい祝いごとを演出してくれるだろう。信じて眠ったからだろうか。三月五日の朝はいつもよりすっきりと目覚めることが出来た。
足音が聞こえる。大倉初瀬(おおくら・はせ)の回診の時間だ。多分、これが立海大学付属病院で受ける最後の回診だ。
千尋の答えはもう大倉に伝えてある。ろくに顔を見たこともない
千尋の保護者は、そんな形でしか結論を選べなかった
千尋に呆れながら、それでも笑ってくれた。
「
千尋君。隣。いい感じの雰囲気だったって美作先生が言ってる」
飾りつけとか、近年類を見ないぐらいだったって。
内線用の音声通話端末を大倉が白衣の胸ポケットに仕舞いながら言う。年甲斐もなくはしゃいでいる、という表現が適切だろう。大倉もまた別離の雰囲気のただ中にいる。看護師たちがてきぱきと血圧測定、検温と順に済ませていくのを、
千尋も大倉も他人ごとのように見送っていた。
「ちょっと、それは気が早すぎるだろ、あいつら」
「朝食を終えたら幸村君の病室に行ってもいいよ」
「初瀬もこの回診が終わったら医局で泣いてもいいんだぜ?」
「この病院を離れるのが不安だ――って?」
「そうそう。初瀬、うちの大学の卒業生だろ」
大倉は
千尋と同じ、付属中学から立海の生え抜きだ。立海以外の学校を知らない。知る機会もなかった。インターンですら、この附属病院で受けたから本当の本当に一般的な社会通念を持っていないのは明らかで、そんな大倉を連れ出すのが
千尋の病だというのが申し訳なさを感じさせる。
「
千尋君。ほら、そんな顔じゃ駄目だよ。君の結論は君が伝えなきゃ」
それが果たせないのなら、本当の本当に二度と立海に戻ってくることは出来なくなる。せっかくの仲間の誕生日を台無しにしたいのか、と言外にあって大倉はいつだって
千尋のことを思慮してくれていたのだな、と今更ながら思った。
「大丈夫だって。初瀬。一人で抱えるの、やめにしたじゃないか」
「そうだね。君にとっても幸村君にとっても今日がいい日になるように、僕も願っているよ」
言って大倉は
千尋の前髪をそっと撫でて「今日も順調」と言い残すと去っていく。
大倉が診ている患者は
千尋一人ではない。だのに、大倉は
千尋一人の為だけに残りの患者と別離することを決めた。誰だ。人間は皆、平等だなんて言ったやつ。命には優先順位がある。博愛で全てが丸く収まることなんてないのだと痛いほど知って、ここで落涙するのが大倉の決定や、それに伴って大倉とは縁の切れる患者たちに対する侮蔑になるのだといつの間にか理解していた。
温かい食事を看護師の介助を受けながら終えると、彼女もまた言う。
「
千尋君。幸村君が待ってるよ」
「行くって。もう行くってば」
「言いたいこと、全部言えるといいね」
それは多分、叶わないだろうし、叶わない方がいい類の願いだ。
言いたいことを全部言い合える、だなんてただの絵空ごとだ。そんなものは相手のことを理解していると高を括った傲慢なやつだけが言える台詞だ。
千尋は
千尋にしかなれない。幸村のことを知ったような気になって、遠慮をしなくなったら――本当の本当に幸村を気遣うことを止めたら、そのときに
千尋は幸村を未来永劫失うだろう。
だから、
千尋は少しずつ胸の中にあるものを整理した。
言ってもいいことと、言わない方がいいことの区別をした。
その答えが結ぶものがもうすぐ見える。
怖じながら、期待しながら、
千尋は自らに割り当てられた個室を出た。幸村が入院してきてからというもの、すっかり肉眼では見られなくなってしまった病院の廊下にアウェー感を覚える。この廊下ですら今日でお別れだ。そう思うとどこか不思議な感じがした。
「精市。『Good-moning』」
いつもと同じように幸村の病室に入る。音楽が鳴っているのが聞こえた。幸村の好みとは少し違う。それでも、流行歌の類だろう。この病院の中でも時折耳にする音楽が聞こえて、
千尋は戸惑いながら挨拶の言葉を口にした。
ベッドの上で幸村がそっと微笑む音が聞こえる。
「おはよう、
千尋。でも今日は別の挨拶が必要だろ?」
試すような声が聞こえた。
ああ、そうだ。それもそうかと思いながら別の言葉を口にする。その間もずっと音楽が流れ続けていて、静謐を好む幸村らしくない風情だな、だなんて思った。
「誕生日おめでとう。これでやっとお前と同い年だ」
「違うよ、
千尋。『Thank you so much for the wonderful time, I had such a good time.』の方がいいだろ」
幸村の発音したものを日本語に訳すと惜別の言葉になる。
さようなら。楽しかった。またいつか会おう。
そう言われて
千尋の頭の中が真っ白になった。
「――お前」
「
千尋。お前は言ったね。迷ってるって」
「――そうだ」
「でも、お前は自分の答えも見つからないのに他人に相談したりなんて出来ないやつだろ」
「――そうだな」
「だから、皆知ってたんだ。
千尋、お前が今日ここを去るって」
「――ああ、そっか。初瀬が言ってたの。そう言う意味か」
類を見ないほどのお祭り騒ぎ。それは全て
千尋の聴覚から隠ぺいする為の工作だ。
ここに――幸村の病室に面会時刻を無視して朋輩が揃って待っている、だなんていう最高の別れを演出する為の。世界にたった一人しかいない相棒が待っているという奇跡を覆い隠す為の、気障な演出だ。
「
キワ」
「どうした、ダイ。お前でもそんな音するんだな」
泣き出しそうに声が震えている。心臓の音が悲しいぐらい彼自身を責めていて、千代由紀人(せんだい・ゆきと)もまた
千尋の境遇を憂いていることを告げた。
「ごめん。俺がしくじらなきゃ、お前にそんな顔させずに済んだのに」
「ダイ、そりゃねーだろ。俺はお前が元通りになりゃいいって思ったのに、肝心のお前がそれ、否定すんのかよ」
「けど――」
「でもさ、せっかく揃ってるなら聞いてくれよ」
俺は、今日の夕方、ここを出る。
言うと半数は息を呑み、残りの半数は予定調和だと言わんばかりに大きく息を吸った。
「先輩、そんなによくねーんすか」
「いや、よくも悪くもねーな」
「だったら、ここにいりゃいーじゃないすか」
「赤也。俺はそういうお前たちの優しさに甘えっぱなしなのが嫌なんだ」
自分に出来ることを試しもしないで、ただ守られるだけの存在でありたくなかった。
何の行動もしないで、何も変わらないことを嘆くだけの存在でありたくなかった。
隣にいる誰かの幸いを貴べずに、ずっとお荷物でいる存在でありたくなかった。
変わりたいのだ。ここを出て、病状がどう変わるかなんて誰も保証してくれない。もしかしたら、悪化するかもしれないし、
千尋が望んだように快癒するかもしれない。
それでも、ただ、ここにあって周囲の憐憫を乞うだけの存在である自分と別離したい。自分の足で自分を支えて、自分だと胸を張って言える自分でありたい。
だから。
「帰ってくる。俺が帰ってきたい場所は立海だから、きっと帰ってくる」
「もしかしたら、出てった先の方がいいかもしんねーじゃねーすか」
「赤也。そうなったらお前は俺のことを呪えばいい。裏切りものだって罵って軽蔑すりゃいい。お前の中で俺はそういうやつだったら、の話だけど」
でも、そうじゃないだろう。確かめるように畳みかけた言葉に切原赤也が言葉に詰まる。そんな切原の肩を叩いて、納得が出来ない風情の仁王雅治が静かに激していた。
「
キワちゃん、俺らはそげん軽うてどうでもええ仲間じゃないじゃろう」
「そうだ。信じてる。だから、最後に言わせてくれ」
どうして
千尋だったのだ。
視力を失うということがこれほどまでに苦しく、厳しいことだと誰がわかってくれるというのだ。
顔色も覗えない。風景も見えない。空気なんて読みようもなくて、自分が何なのかすらわからない。
どうしてそれが
千尋でなければならなかったのだ。
誰に言っても、誰を責めても何の解決もしないとわかっていた。
物語のように悪なんて――誰からも責められる落ち度を持ったものなんてどこにもいなかった。
寧ろ、物語の中のように
千尋の周囲は
千尋にとても優しかった。
だからずっと言えなかった。
どうして、
千尋だけがこんな思いをしなければならないのか。
教えてくれと叫んでも得られない答えとどうやって向き合えばよかったのだ。
千代もまたその苦しみを負って全国大会を戦い抜いた。今更、
千尋だけが弱音を吐くだなんて格好がつかなくて出来る筈もない。
でも、その気持ちを伝えないまま別離しても
千尋の苦しみがなかったことにはならない。
弱音を吐けない仲間なのか、と自問した。格好を付けていたい。頼り甲斐のある力でいたかった。
それでも。それはもう叶わない願いで、だったらせめて自分と向き合いたいと思った。
「精市。お前は――俺みたいになるなよ」
涙と鼻水で顔中を汚して、それでも最後の最後まで諦めを受け入れられないで、強がると幸村が困ったように笑う音が聞こえた。
「
千尋。俺は――最強なんだ」
「知ってる」
「立海の旗はきっと俺が掲げるから、お前は心配しなくていいよ」
「仲間外れにしてんじゃねえよ。旗を掲げるときまでには帰ってきてるに決まってるだろ」
あと五か月しかない。それでも、その条件は幸村も一緒だ。
涙声でそれでも強がると、幸村の笑みの音が変わる。
「
千尋」
「何だよ、精市」
「『さようなら』じゃなかったね。『Break a leg.』」
「――『I will.』」
「うん。待ってる」
きっと待っている。だから、頑張ってきてね、と敢えて幸村は言った。これから心の治療を受ける
千尋に敢えて頑張れ、だなんていうのは立海がどれほど無謀でも幸村ぐらいだろう。
真田も柳も幸村の激励に息を呑んでいるのが伝わってくる。英語の意味を正しく理解しているだろう彼らだからこそ、その反応だ。
「いってらっしゃい。
千尋。俺が治るのが早いか。お前が帰ってくるのが早いか。全国大会までに答え合わせが出来るといいね」
「まぁ、俺らに黙って消えんかったことだけは褒めちゃろうかのう」
「
キワ君。ちなみに、どこの病院に転院するのですか?」
首都圏なら会いに行ける。そういうニュアンスを含んだ柳生比呂士の問いに苦く笑って、
千尋は首を横に振った。
「ケンブリッジ大学」
その単語を紡ぐと殆ど全員の目が点になったのを肌で感じる。「へ?」という声が三か所ぐらいから同時に聞こえた。
「だから。ケンブリッジ大学の教授が手紙、くれた」
イギリス。知ってる? 外国だけど。と馬鹿みたいなことを付け加えるとジャッカル桑原が「お前じゃないんだからわかってるさ」と呆れたように笑った。
その隣で丸井ブン太が見えもしないのに、彼の頭の上に無数の疑問符を浮かべて問うてくる。
「えっ?
千尋? お前、英語喋れんのかよぃ」
「お前よりは全然喋れるよ、ブン太」
「嘘だろぃ? お前、英語の順位いくつだよ」
「さぁ? でも、会話だけなら間違いなくお前より上だって」
そう言えるぐらいにはこの病院の中で、
千尋は英語と親しんできた。
幸村がいなければ、この選択をすることに怖じていただろう。
あのとき、がむしゃらにでも英語を学びたいと言ったことがこんな形で生きてくるとは思ってもいなかたけれど、もしも宿命というものがあるのなら、
千尋の道はまだ閉ざされたわけではない。
だから。
「なぁ幸村君も思うだろぃ? こいつ! 絶対イギリスでなんて生きてけねぇよぃ!」
「そうかな? 俺はもう
千尋なら十分に生きてけると思うな」
「あれ? お前、割とびっくりしねーのな」
「
千尋。お前は見たことがないだろうけど、お前が四六時中大事に読んでた『手紙』。ちゃんと印字されてたんだよ、普通のインクでも」
だから
千尋が点字を黙読する間に幸村は手紙の中身を垣間見たのだと告白される。
「知ってて、お前、俺に英語教えてくれたわけ?」
「知らなくても、教えてたから無意味だけど、まぁ結果的にはそういうことになるね」
「――信じらんね。俺、何か月も悩んだのに」
「そう? 俺は信じてたよ。
千尋が最善の選択をすることも、俺たちのことを信じてくれることも」
だから、いってらっしゃい。と幸村が重ねて言う。
千尋からすれば突然だった告白も、決別も、渡英も全部を飲み込んで微笑む幸村の強さに、彼の言った「最強」の意味を改めて知ったような気がした。
「お前からの誕生日プレゼントは全国大会の三連覇、でいいよ」
「うん――うん、そうする。絶対に、そうする」
目の前はずっと暗闇のままだ。光なんて兆しすらない。
なのに。いつも見ている闇と今の闇は何かが違っているような気がした。
「っていうか、足やって渡独したやつの前で脚折れってセイって相変わらずなんだな」
「由紀人。お前も頑張って。
千尋とどっちが先に帰ってくるのか、楽しみにしてるから」
「言われなくてもそうするっての」
で?
キワ。いい加減泣き止んだら?
剣呑を装ってぽんと置かれた言葉が
千尋を柔らかく包む。
ここだ。この場所が
千尋のいる場所だ。何か月も失っていた感覚が戻ってきたような気がするのに、
千尋は今夜日本を発つ。皮肉なものだ。もっと早くにこの決定を告げていれば何かが変わっただろうか。束の間そんなことを考えて、最初から泣き言を口にするようでは立海の仲間の信頼は得られなかっただろう、だなんて思い直す。
「精市。こんな誕生日、最後にしようぜ」
「そうだね。俺ももっと素直に祝われたいよ」
「生きてりゃそういう誕生日に巡り会えんだって」
「そもそも、誕生日ってそういう祝いだしね」
今年の誕生日プレゼントのことも忘れないでね。言って幸村以外の立海の仲間がそれぞれの形で
千尋の肩を、胴を叩く。あの日。限界突破の概念を提示したあの日と同じように祝福と激励を受ける。
千尋の人生に諦めなければならないことなんて一つもない。
そんなことを自分の誕生日に教えてやらなければならなかった幸村の不運のことを少しだけ申し訳なく思いながら、
千尋は泣いた。
泣き腫らした目のまま、幸村の病室にいると幸村の担当看護師に見つかって温かいタオルを渡される。そうして、昼食の時間まで隣室で過ごして今度こそ最後の挨拶を終えて自分の病室に戻ると、大倉が既に荷造りを始めていた。
「
千尋君。パスポート、って知ってる?」
知っているも何も、出国手続きに必要だから、と言って先ごろこの病室で写真を撮っただろうと返すと「おかしいなぁ~?」と言いながら大倉が引き出しを開け閉めしている。
千尋の担当看護師が「先生、医局の金庫の中じゃなかったんですか」と飛んでくるまで残り五分。
この大人を信じてもいいのか、少しだけ不安になったことは墓の下まで持っていこうと決めた
千尋だった。