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All in All

69th.二時間の帰還

 鹿島満(かしま・みつる)にとってそれからの三ヶ月は怒涛の勢いで通り過ぎた。
 特待生の先輩で残っているのはジャッカル桑原一人だけで、一番最初にその枠にいたものは皆途中で消えてしまった。会ったこともない徳久脩(とくさ・しゅう)、足の故障で祖父の運営するリハビリ病院へと渡独していった千代由紀人(せんだい・ゆきと)、そして三月、渡英した常磐津千尋の三人。この三人と三強なら全国大会三連覇なんて決して荒唐無稽な夢でも何でもなかった。三年生の部員たちは皆、口を揃えて言う。そのぐらい、先輩たちは皆強かった。
 三強の頂点にいた幸村精市もまた病床に伏している。
 それでも誰もが夢を諦められなくて、我武者羅な日々が続いた。
 徹底した練習。ミスをすれば罵倒され、負けようものなら問答無用で殴られる。まるで今までの居心地の良かった部活の空気が一変して、鹿島は困惑した。それでも。テニスを──全国大会の優勝を勝ち取る為にはそれも必要な行為なのだと割り切って鹿島はひたすら耐えた。
 定例の大阪・四天宝寺中学との合同合宿もなかった。あったのは東京・氷帝学園との練習ぐらいで、その中でも決して負けることは許されなかった。
 緊張感の連続の中に、鹿島は少し疲弊していた。先輩たちは皆、勝って笑う──今、このテニスコートにいない先輩たちをも取り戻して笑う、という目標の為に必死だった。わかっている。辛いのは自分だけではない。だから、一緒に耐えようと思った。そうして耐えた時間の向こうで全員で笑う未来があるのなら。鹿島が今、耐えることは決して無駄ではないと思えたからだ。
 なのに。

「本っ当に! 遅いんですよ! あなたたちは!」

 鹿島の敬愛する先輩のうち姿を消したものは誰一人として関東大会の決勝戦に間に合わなかった。
 七月。幸村が手術を受けた。その段になるまで千代も千尋も何の音沙汰もなくて、二人がどうしているのかすら誰も知り得なかった。手術室に入る前に幸村が「鹿島。千尋と由紀人のことだけど、もう少し待ってあげてくれないか」と言うその瞬間まで。本当に何も知らなかった。驚いて言葉を失った鹿島に幸村は畳み掛けるように言う。二人も今が正念場なんだ。と。
 だから。
 鹿島は幸村を信じた。信じて待った。全国大会の決勝までにはきっと帰ってくる。それまで立海テニス部として恥じない成績を先輩たちが勝ち取ってきてくれる。そう、信じたのにただの通過点の筈だった関東大会決勝戦で、立海は準優勝に終わった。そのときの喪失感はまだ覚えている。先輩たちを罵りたいわけでもない。勝てなかった。その結果が全てで、鹿島たちはどんな顔をして幸村に会いに行けばいいのかがわからなかった。失望されるだろうか、だとか、叱責されるだろうか、だとか色々考えたのに、手術が成功したという幸村は厳しいけれど確かに笑顔を浮かべて全国大会で勝てば問題ない、と強くつよく笑った。そのときに思ったのだ。やっぱり幸村は最強の部長なのだ、と。
 程なく幸村が部活動に復帰して、部員たちの目に希望という輝きが宿った。幸村がいるのなら、二度と敗北の苦渋など味わうことはないと確信すら抱いた。その感触の通り、全国大会は順調に勝ち上がってきた。いち早く決勝戦出場のカードを手に入れた鹿島たちは対戦校がどこなのか。もう一つの準決勝を見に行った。立海と肩を並べる筈の四天宝寺が大苦戦の末、敗北して決勝戦の組み合わせは奇しくも関東大会と同じになる。二度、負けるのがどれだけの屈辱か。味わったこともないのに、鹿島はその苦味を確かに知っている。負けられない、と強く思った。
 ただ、あまりにも激しい攻防があったため、有明コロシアムは修繕が必要なほど大きなダメージを負っていた。決勝戦の開催を三日遅らせる。その旨の連絡を受けたその夜のことだ。
 景気付けに、と顧問が連れていってくれた回転寿司店に千尋と千代が揃って顔を出したのは。

「辛気臭えなあ、お前ら」
「俺たちがいないからってちょっと油断しすぎなんじゃない?」

 まるで何ごともなかったかのように当然の顔をして現れた先輩二人を見て、鹿島──だけではない、多くの立海生がどよめいた。
 今更何をしに帰ってきたのか、とか、誰の所為で苦境に立たされているのか、だのと言った野次を飛ばしたい、とどの顔にも描かれていたけれど、負けたのは──学校の名前に泥を塗ったのは他ならない自分たちだということを誰もが理解していた。楽しく回っている筈の寿司皿だけが滑稽なほど明るくて、鹿島は食欲が一瞬で吹き飛んだのを感じている。
 その結果が先の台詞だ。吠えずには──彼らには何の非もないのを理解してなお吠えずにはいられなかった。

「悪かったって、満ちゃーん」

 千尋が以前と何一つ変わらない快活な笑みを浮かべる。その双眸に自分が実像として映っているのを鹿島は感じた。立海大学附属病院の病棟で倦んだ目をしていたあの常磐津千尋ではない。かつて鹿島自身が憧れた「行き止まり」の常磐津千尋が確かにそこにいた。
 そのことを認知した鹿島の胸の奥がぎゅっと絞られたような感覚を生む。嬉しい筈だ。喜びたい筈だ。なのに鹿島は苦しさを抱いた。関東大会で受け取った銀のトロフィー。二番手の不名誉。守れなかった約束。そして今からそのリベンジをする緊張感。それらがないまぜになって鹿島を苦しめる。
 それでも。
 鹿島は千尋と再び会えたことにそれでも確かに歓喜していた。
 立海黄金ペアだ。この不適で傲慢で傲岸な二人を見たくて、やっと見れたことに安堵する。
 隔たりなんて最初からなかった。確執もなかった。苦しんだやつなんていなかったのだ。
 そう、思いたいのに帰還した筈の二人はそれを許してはくれなかった。

「それ、残念なお知らせをする顔じゃないだろ、キワ
「いいじゃねえか。どうせ最初から結論は何も変わりゃしねえんだから」
「期待させるだけ残酷だ、って話」
「まぁ、今更お前さんらが来たところでそうほいほいとレギュラーの座を譲るちゅう馬鹿もおらんきの」
「そうそう。流石ハル。理解が早くて助かるぜ」

 満ちゃん、俺たちは全国大会の決勝を見にきただけ、なんだ。期待させて悪いな。
 一瞬。本当の本当に一瞬だけ、鹿島は日本語が理解出来なかった。まるで他言語を聞く感覚。その中から這い上がって、じわじわと意味を検分すると困惑より先に怒りが生まれた。

「見にきた、だけ?」
「そ。見にきただけ。あっ、ついでだから写真ぐらいは撮って帰るかもだけど、見にきただけ」

 東京は変わらないな。そんなことを言って軽く笑っている千尋を見ていると憤怒を感じる。馬鹿にされているのか。鹿島がそこまでの屈辱を味わっていると知って、この先輩は傲慢に振る舞っているのだろうか。そうだとしたら、断固として許すことは出来ない。自分たちを捨てて出て行った分際で、どうして今更高みの見物などと洒落込んでいるのだ。あまりの怒りに鹿島の脳内から語彙力が消し飛ぶ。

「僕たちがこんな思いをしてるのに、ですか」
「知らねーよ。どんな思いか、なんて説明するだけ野暮だろうが」
「帰ってきたい、って言ったのは嘘だったんですか」
「今も思ってる。でも、まだ時期じゃねえ」
「三年のあなたが! この大会に出なかったら! 一体、いつ──」

 時期じゃない、というのが真実なら、一体いつがその時期になり得るというのだ。
 中学三年の夏は二度ともう巡ってこない。栄光の三連覇を掲げる夏は、この一度きりなのだ。
 なのにへらへらと笑って千尋は傍観を決め込もうとしている。
 声を荒げると、相変わらず掴みどころのない笑みのまま千尋は告げた。

「鹿島。よく覚えておけ。命より大事なものを守りてえならそんな安い煽りなんてすんじゃねえよ」

 命より大事なもの──千尋にとってのテニスはそれほどの重さを持っているのだと今、彼が言外に示した。
 ではなぜそれを守らないのか。目の前でそのテニスを懸けて必死に戦っている鹿島たちを観察しようとしているのはなぜだ。
 理解が出来ない。目の前にテニスがあるのに、その双眸には実像が結ばれているのに、どうして千尋は帰還しないのだ。

「僕だって──キワ先輩と一緒に戦いたかっただけなのに」
「満ちゃん、いつか──もっと高い場所で俺はお前を待ってる、じゃ駄目か」
「そんなの! 何の約束にもならない!」

 わかっていた。
 千尋が何の理由もなく鹿島を傷つける先輩なのかどうかも。テニスが好きで好きすぎて「All in All」と言わしめた千尋にとってそれを最優先出来ないことがどれほど苦しいのかも。知っているのに、理解を拒んでいた。一緒に戦ってくれないなら敵と同じだ、なんて言外に責めることが二人を余計に傷つけるだけなのも、わかっていた。
 ここにいる仲間は皆同じ疑問と罪悪感を抱いている。
 道の途中で逸れてしまった仲間が再び同じ姿で同じ役割を演じてくれる筈がないことも、そう願うことが今いる仲間へのどれだけの侮辱になるのかもわかっている。だから、鹿島以外は誰もこの会話に首を突っ込んでこない。

「鹿島。お前は本当に千尋が嘘を吐くようなやつだと思っているのかい?」
「──えっ?」
「いいじゃないか。見にきただけ、で」
「でも」
「鹿島。千尋が見にこられただけで十分俺は嬉しいよ」

 だって、約束の瞬間を見てくれるってことだろ。言った幸村の双眸には強い輝きが宿っていて、この部長は本当の本当に心の底から千尋のことを信頼しているのだということを告げた。そして、彼は決意してもいるのだ。必ず勝つ。勝って真紅の優勝旗を掲げて、こう言うのだろう。どうだい、千尋、悔しいだろう。その一言を聞くためだけに千尋が帰国したのだと幸村は疑ってもいない。
 だから。

「鹿島。本当の千尋に勝たなきゃ気が済まないのに、焦るなよ。そこにいるのは『All in All』の常磐津千尋じゃないか。絶対に帰ってくるに決まってる。そうだろ、千尋
「お前さあ、本当、何て言うか。変わらねーな」
「ま、このぐらい元気なら三日後の決勝戦は勝てるんじゃない? 高いフライト料金払ってきてるんだから、そうじゃないと困る」
「由紀人、お前は本当に一言余計だね」

 幸村が呆れたように笑うのが最後の合図だった。随分と長い間留守にしていた二人をテーブル席の一つに座らせて、賑やかな夕食が再開する。イギリスはどんな国だ、ドイツはどんな国だ。そんなことで次から次へと二人が質問責めになった。二人ともまるで昨日までそこに一緒にいたかのように質問をやり過ごしていくのを見ていると、いなかった事実の方を忘れてしまいそうなほどだった。四月に入部した一年生たちですら、千尋たちのことを当たり前に受け入れている。それが彼らの人徳なのだと言うことは疑いようもなく、そして同時に自分たちだけが独占していた千尋たちがどこか遠くへ行ってしまったような寂寥感を覚えた。わかっている。この二人は見届けに帰ってきただけだ。一緒に戦うわけではない。それでも。と鹿島は思う。鹿島自身が試合に出場するわけではなく、その点においては鹿島も千尋たちも見守るだけの仲間であることに何ら変わりはないのだ。
 だから。

キワ先輩、カリフォルニア巻きじゃないお寿司が恋しいんじゃないですか」

 景気良く回り続けるレーンから幾つかの皿を取ってテーブルに並べる。鹿島自身が食べたい、と言うよりは日本に戻ってきた同朋が食べたいと思っていそうなものを選んだ。鮪、イクラの軍艦巻き、玉子焼きに鰻。つぶ貝にイカ。何ならかっぱ巻きも珍しいだろう。そんなことを思いながら色とりどりの皿を取る。隣のテーブルも向かいのテーブルもそろそろ食事に本腰を入れ始めていた。
 通路側の席に座った千尋の前に遠慮がちにそれらを置くと、千尋は表情を輝かせながら醤油をかける。
 そして、満面の笑みを浮かべてイカの握りを口一杯に頬張っていた。

「おう、よくわかったな満ちゃーん。俺、鯛がいいな。ダイ、鯛流れてきたらキープしてくれよ」

 キープするぐらいなら個別に注文すればいいだろう。イギリスで暮らす日々はそんなことすら健忘させるのか。半ば呆れのようなものを感じながら、それでも鹿島はこの穏やかな時間の余韻の中にいた。
 千代が見慣れた顔で千尋の要求を一刀両断するのもいっそ小気味いいほどだ。
 
「俺、お前の配膳係じゃないんだけど」
「諦めろ。レーン側に座ったら諦めて配膳するのが回転寿司だろ」
「じゃあキワ、代わってやるからそこどいて」

 穏やかな時間、の筈だ。立海の勝利を見届けるために帰ってきたのだから試合は出来ないとしても、ある程度健康上の問題は解決された筈だ。
 なのに。千尋は意味深長な顔をして千代の悪口と正面から向き合ってしまった。今までの千尋なら絶対にしない、悪手中の悪手だ。そのことに鹿島は自分の中で湧いていた歓喜が少しずつ熱を手放しつつあるのを感じる。

「俺は──駄目だ」
「何が」
「多分、もうもたない」
「何が」
「二時間なんだ」
キワ、さっきから何言ってんのか全然わかんないんだけど?」
「悪い。二時間なんだ。二時間までしか延ばせなかったんだ」

 千代の問いに明確に答えることなく、千尋は苦しそうに笑った。その笑みを二度と見たくない、と願っていた自分が突然に蘇る。知っている。あれは──千尋が無理を通すときの顔だ。

「──キワ、お前」
「そうだ。何も治ったわけじゃねえんだ」
「二時間、って」
「あるもの、を使ってから二時間。そのあとの二時間は何したって絶対に見えねえ」

 暗闇でお前、探すのとか不可能だろ。だから、空港着いたときに使ったんだ。それから二時間。もうそろそろ終わりだ。
 悲しげに眉尻を下げて千尋がそう告げるのを回転寿司店にいる全員で受け止めた。まるで薬物中毒にでもなったかのような千尋の告解に、十五に満たない大半の中学生は理解不能を示す。千尋千尋の保護者である大倉初瀬(おおくら・はせ)、あるいは彼らのことを研究しようとしている大学教授とて違法薬物を投与したりはしないだろう。となると、合法的な薬物の影響──もしくはそれに近い、なんらかの代替行為をしている。
 空港に着いたときに使った、と千尋は言った。ならばその合法的な治療は多くの人々が行き交う場所で行っても別段咎めたてられる行為でも何でもないのだろう。かつて立海大学病院で病床にあったとき、千尋はテニスをしている間だけ視界が戻る、と言っていた。その代わりラケットとボールから離れてしまえば暗闇だ。日常生活では到底維持し続けられない。だから、千尋は全てを失った。

キワ」 
「別にやばいことなんてしてねーよ」

 心の治療をしただけだ。と千尋は空っぽの笑顔を作る。その双眸には彼が告げた通り、もう光は宿っていないようだった。
 目の前に鹿島がいるのに、千尋の目はもう鹿島を見ていない。
 だから、だろう。千尋は「百錬自得」の聴覚神経を駆使してサングラスを装着した。虹色に反射するレンズの向こう側が見えなくなる。まるで夏の炎天下の中、試合をするテニスプレイヤーのような姿で千尋は寿司屋の中に泰然とある。

「だから、お前らに頼みがあるんだ」
「『二時間以内に勝ってほしい』かい?」
「そうだ。出来ねえのか」
「その前にその『合法的な治療』の手段について聞かせなよ。俺は自分の仲間が危険なことをしているなら、試合なんてどうでもいい。さっさとイギリスに戻って治療に専念してほしいからね」

 それが俺たちの答えだよ。誰に確認を取るでもなく、幸村がそう総括する。確かに、その指摘は的を射ていて鹿島は幸村の精神構造の強さに畏敬の念を抱いた。これが、自分たちを率いる最強の姿だ。決して揺るがない立海の旗頭だ。
 だから。

「そんな大袈裟に騒ぐなよ。写真。撮るだけだから」

 千尋がそうあっさりと口を割ったとき、鹿島もまた確かに驚いていた。行き止まり──デッドエンドの常磐津千尋は気高く、決して容易くは弱みを見せたりしない。強さを信条とし、前を向いてひたすら邁進する。それが常磐津千尋だと認識していた。だから、千尋は決して手の内を明かしたりしないだろう、とすら思っていたのにそれは簡単に否定された。
 そして、千尋の種明かしは実にシンプルで、確かに何の違法性も危険性も孕んではいなかった。
 もっと深刻で残酷な告解があると思っていた寿司屋の中が拍子抜けするほどだ。

「──えっ? それだけ?」
「そう。それだけ」
「見えてないのに、写真が撮れるのかい?」
「それが不思議なんだよな。見える前に撮った写真のが味があっていい、って皆言うんだからさ」

 暗闇の中、指先の感覚と「百錬自得」の聴覚だけを使ってシャッターを切る。そうして撮影したものは、かつて千尋がコンデジを駆使して撮してきたものよりずっと煌めいて見えるのだと彼はまるで他人ごとのように語った。

「だったら、その『奇跡の一枚』俺にも見せろよ」
「カメラ、ホテルに置いてきたから今は無理だって」
「三日後まで、どうせセイたちは練習するんだろ。そのときでいい。俺にもお前の『奇跡の一枚』を見せろよ」
「──まぁ、別にいいけど。俺からしたらどれがどういいのかわかんねえからな」

 このままだと勢いで二時間後に千代の為だけに「治療」を行なってしまいそうな会話だった。千尋にとって世界に一人しかいない黄金ペアの相方にならそういう特権もあるのかもしれない。それでも。幸村はそれを良しとはしなかった。
 あたかもまるで自然のように振る舞って千尋と千代の会話に首を突っ込む。千尋の理解者は千代だけではない、と示して、お人好しの千尋の言質を取ろうとしているのが横で聞いている鹿島にも丸わかりなのに、敢えてなのかどうかは不明だけれど、千尋は千代に向けていた意識を幸村にも向けた。
 
「お前の写真なんて最初から全部そうだったじゃないか」
「精市、そりゃねえよ。お前、そこは楽しみにしてるとか適当に励ませよ」
「だって。事実じゃないか」
「だから! そういうときは! 持ち上げるなり! おだてるなりするのが! 日本人だろ!」

 目が見えていなくても、病棟の中いなくても、住んでいる場所が地球の裏側でも千尋と幸村はずっと同じ高さにいるのだ、とそのやり取りが告げる。そうだ。今、鹿島は憐憫の情を千尋に向けた。失望を抱いた。諦観を示した。幸村はそうしなかった。ただそれだけの違いなのに鹿島は幸村のことをずるい、と思ってしまった。やっぱりどう考えても幸村が最強の部長で、永遠に追いつくことのない遥か高みの目標なのだと知って、悔しさは不思議と湧かなかった。
 正面に座る千代を見た。彼からすれば突然に視界をシャットアウトされてがっかりしているだろうに、それでも千代も優しい眼差しをしている。大切な相棒を見るその双眸には曇りがない。あの瞬間、間違いなく冷え切った筈の店内はもう明るく、明日の方を向いている。どうして、三年生の先輩というのは皆こうも強いのだろう。皆で乗り越えてきたからだろうか。千尋と幸村の他愛のない会話が明るい空気を作り、そしてそれを慈しみで守っているからだろうか。いつか。自分も──自分たちも切原赤也たちとこんな風に信頼しあえる仲間になれるのだろうか。その答えを先輩たちがくれない、という確証だけがある。

「満ちゃーん、俺の鯛流れてきてねえよなぁ」

 関係ないと傍観していた鹿島にもその優しい空気はやって来る。何の構えもしていなかった鹿島の横面を張った言葉に何と返すのがいいのか、束の間迷って、結局鹿島もまた「いつも通り」を選んだ。

「最初からそんなもの、流れてすらないですけど」
千尋、そんなに鯛が食いてぇなら注文してやるけどぃ?」
「いいよ。別に。流れてるやつを食えたらいいだけだし」
「出た! 千尋のよくわかんねぇわがまま! ひっさしぶりに聞いたぜぃ」

 俺は確かにわがままだけど、ブン太ほどじゃない。いやいや、お前が最強だろぃ。そんなやり取りがテーブルを超えて行われる。
 まるで。本当の本当に彼らは片時たりとも離れていなかったのだと言われれば信じてしまいそうなほど、ごく自然に会話をするのを聞いていると胸の奥の方が絞られるような痛みが生まれた。
 
キワ。うどん頼んでおいたから後で食えよ」
「さんきゅー、ルック!」

 あっ、でも俺、箸使えねえんだった。桑原に返した言葉には別の場所から提案が来る。

キワちゃん。しょうがないのう、俺が食わしちゃるき、あーん、しとうせ」
「えー、俺の初あーんってハルなわけ?」
「よく考えてみんしゃい。世の中、初あーんは皆母親で済ませちゅう。今更二番目だの三番目だのをありがたがる意味もないろう」
「俺は! 人としての! 尊厳の話をしてんだよ!」
「でしたら、キワ君。君はもう既に何人もの女性に手ずから食事をいただいたのではないですか?」

 例えば病院の看護師とか。
 あまりにも悪辣すぎる冗談に鹿島は一瞬、肝が冷えるのを感じたけれど、場は湧いた。どうしてこのジョークで笑えるのだ。鹿島が生真面目すぎるのだろうか。そんなことを束の間考えているとレーンの反対側に座った加古旭(かこ・あきら)がこちらを見ているのに気づいた。何も言わないけれど彼ももまた先輩たちのノリについて行けずに戸惑っている。
 
「鹿島、俺、別の意味で先輩たちってコエーって思ってる」
「切原?」
「テッペン取ってさ、来年も取ってさ。ああ、自慢の後輩だって認めさせてやろーじゃねえか」
「──うん。そうだな。そうしよう。絶対に、そうしたいから、お前は勝つんだろ」

 だから。これは未来の約束だ。鹿島たちもまた学校の名を背負い、歴史と伝統を受け継いでいくことを約束した。
 決勝戦は三日後だ。それまで、相手だってトレーニングを重ねるだろう。それでも、勝つと切原の目は言っている。明日の天気も知らないで。三日後の約束をした回転寿司店の中のあちこちで注文品が届き始める。
 いつか。
 いつか、だなんて抽象的で漠然として曖昧模糊な約束をするのも満更悪い気持ちはしない。
 いつか、千尋はこの場所に帰ってくるだろう。そのときには彼よりも強い自分でありたい。
 そんなことを思いながら、鹿島はそっとタッチパネルを操作して鯛の握りを注文した。
 賑やかさの中にいても「百錬自得」で種明かしをしてしまうだろう先輩が、わざと騙されたふりをしてくれる優しさに甘えている自分にはまだ気付かないで、鹿島の脳裏は未来を描き始めていた。